yaritsukusu
色々とやり尽くされていると思うんだけれど、だから色々考えて新しいモノが生まれる。そこから派生したモノが有象無象になり淘汰されていく。
されていかないモノもある。でもそれが選ばれたモノであるとは限らない。むしろ、有象無象のまま変化しないという現象が起こる。
新しいモノを生み出すという事は非常に困難だ。既存のモノが多すぎるから。
また、新しいモノを作ったとしても、それが新しいモノである事は実は少ない。
作ったつもりなだけで。
こう考えると、どうやって新しいモノを作りだすかというテーマは非常に重い。ひらめきは当然あるのだろうが。
そして本当に新しいモノが必要とされているか否かも微妙なところだ。
新しいの定義も何だかなぁ。携帯電話なんて新しくないけど、少なくとも林造さん(俺の爺さん)にとっては「最近出てきた新しいモノ」だ。
でも彼は90になろうというのに、メールをする。丁寧な文面が微笑ましい。
話しが逸れた。
意思が疎通を必要として言語が必要になり会話が出来た。のかどうかは分からないがそんな所だろう。すっげー昔に会話を覚えた人間が電気だとかなんだとか色々必要として電話が出来て今や携帯電話を遥かに飛び越えインターネットが世界を劇的に変えた。
形は変えたが、求めているモノは意思の疎通、伝達、コミュニケーション。
やってることは同じなんだなぁと思うと、何だか気が楽だ。
演劇もまた然り。なんだろうと思う。きっと、たぶん。色んな形で色々なものが確かに生れているけれど。
その目的は意外とシンプルなんだ。これについては僕ごときが考察することではないのだが。
で、つまり。
既存のモノを使い新しいモノを生み出す。というのがずっと僕自身が求めている事で。
だからというと、もうコレは後付けのような理由なのだが。
劇団を作った。
中井庸友監督とともに設立。
劇団って。劇をする団体という事、なのだろうか。劇的な団体?いや、劇をするんだから劇的なのは当然か。むしろ劇的じゃ困る。的って。。劇じゃないと。劇の様なモノじゃしょうがない。演劇たらしめる劇でないと意味が無いのだ。
そこに生まれる世界感や空気は「アタラシイモノ」に他ならないのだから。そしてそれこそが「アタラシイモノ」でなければ有象無象で淘汰されゆく結末になるワケで。
たらたらやってたら変化なくそのままである事も可能ではあるけど。そんなモノは在って無いのと同じ。
今までのプロデュース公演とは違うんだ。劇団だから。形は変えてもやっている事は同じなんだけれど、これに関しては劇的に違うんだ。何が違うかといえば、やっている事は同じなんだなぁと思っても気が楽ではない事だ。
今までの舞台作りだって気が楽じゃない。これに関しては変わらない。だから変わらないんだ。
ん?
どっちだ。
ロンドンで公演した時にインパクトある名前。
何れにせよ、中井庸友監督に師事して4年目。この期間他での出演が減ったとしても構わないと飛び込み、潜伏していたのだけれど。とにかく共に劇団をやらせて頂けるまでになった。
20000人の動員が目標。
難しい数字だとは思わない。
とりあえず、1000人動員からのスタートですが。
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明日は娘の誕生日。ありがとう。
感謝
ヨコタシンゴ
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