光陰矢の如し・・・

    blog — yokotashingo @ 2013年11月17日-12:40 PM
    ですね。11月です。11番目の月です。当たり前です。11月なのだから。
    もう11月です。
    随分と朝晩は冷え込み布団を恋しがる事が多くなりました。夏辺りは暑いだけで煩わしいとさえ思っていたのに、全く。「あなたって勝手ね」ってやつです。
    ブログを書いています、賢明な読者ならお分かりになるでしょう。今貴方がそれを読んでいるのですから、今僕はこれを書いています。でも読んでいる文章は今僕が書いていてそれが出来上がった後なので、貴方の読んでいる今は、僕が書いている今よりも未来であり、ココに記される僕の「今」は貴方の「今」の過去であるワケです。
    いつもながらのヨコタの文章ですから、ご笑読頂ければ幸いです。
    なぜ急に普段記す事のない、忘れられているブログを書くのかと言いますと、そうてす。
    てすってなりましたが面倒なので濁点を付ける事はしません。でもその言い訳を書くくらいならてをでにしたのが簡単だったと気がつきました。
    時既に遅しです。
    もう修正出来ない。
    でも面倒がらずにいるのであれば、まだ修正出来る。
    どうでも良いですが、話しを戻し。
    そうです、公演が終わったのです。日々のしょーもないことは書きませんが、我が劇団の本公演が終わったということはしょーもないことではなく、僕の中ではかなりビッグな項目ですので。ここで書かずにいつ書くのだ!というタイミングであるのです。
    まず、劇団江戸間十畳第3回本公演「明日は天気になる」@ウッディシアター中目黒へご来場くださいまして誠に有り難う御座いました。
    この戯曲を最初に読んだ時に記したブログが実はこれです。
     
     
    解釈に時間の掛かる作品でした。今なおそれは継続中でもあります。
    作品に関して、質問を多く受けた芝居でした。また、笑いすぎて泣いたとも言われました。
    ラストの解釈は十人十色なのでしょう。答えはご観劇くださった貴方の中にあります。
    むしろそこにしかないのです。こうなんじゃないかと思う。こうなのかな。というそれが正解です。そして今思っている事が明日変わったらそれも正解です。
    お芝居を見て、酒の肴に盛り上がれる。そんな大衆の演劇をしたいと思っています。
    人は変わって行くのです。無常です。
    過去に囚われ一見変化していない様に見えたとしても、変わって行かない事などないのです。
    時に変化や成長に敢えて目を瞑り、停まりそれを安心と誤解することもあるでしょう。
    しかし、必ず変化しそれに対応しているのです。
    その為に、「自身の中で色々な事をコロシて、またコロサレて来たのかもしれない」
    これは、ご観劇頂いた方の感想にあった一文です。
    まさにそうなのだと考えます。
    明日は天気になるの登場人物は、一人なのかもしれない。その一人の過去現在未来のあらゆる側面が登場人物として描かれていたりして、そう考えても面白い。
    でも時間軸が過去から未来へと横軸で捉えるとそれは少し異なる、なんというか。平面に本を積み重ねて行く様なもっと立体的な感じなのです。いつだったか過去に起きた事も未来に起こる事も今同時に起きているのだというのを聞いた事がある。
    たぶん、ある。
     
    ような気がする。
    そもそも「天気」というのが晴れ渡ったさわやかな空と捉えるか、はたまた「天の気」と捉えるか。解釈は大きく異なる。天気になるというのが晴れるというは誰が決めたのだ。どちらだって構わない。
    んじゃないかな。。
     
    もはやヨコタの文章らしからぬ、ちんぷんかんぷんになって来たのでやめよう。。
    しかし、哲学的に見えるがその実荒唐無稽であるという面では、ヨコタの文章らしい。
     
    ん?
     
    はい?
     
    まぁ良いです。
    今年は劇団を一般社団法人として登記したり、若手の育成に新人メンバーを増やしたりもしました。
    本公演も二回催し、ウチの代表が監督したネオ・ウルトラQが放送され、また映画館で上映もされました。
    またそれは映画館で上映される模様です。
    そして、泣いたり笑ったり喜んだり苦しんだり酔っ払ったりしました。しましたというか、していました。
    今尚しています。。
    常々真摯に演劇に向かいたいと願ってはいるものの、自らの行動ははたしてそれを言えるのだろうか。甚だ疑問です。
    演劇人たるもの、立腰、慎独をもってその日々を襟を正して生活しなければならないのである。
    それだからこそに人の正負を表現し、それを観た人が笑いまた、チクリと突き刺さりそして、胸を詰まらせる事を許されるワケで。
    しかしながら、畏れ多くも劇聖の様にはいかんのです。そりゃそうなんだけれども。。
    草臥れたらひっくり返り、大騒ぎしてテンションを上げ、上がったり落ちたりしながら未熟な日々を生きているのです。
    常に姿勢を正し、平常でいる事にはまだまだほど遠い。風姿花伝にある草花の様にはいきません。
    誰に頼まれた訳でもなく、自らの意思でもなくただただ大地と、否、宇宙のエネルギーを得て成長し花を咲かせて、役目が終わるとまた土に還る。誰が為に。
    次なる者の為に。それは犠牲ではないのでしょう。
     
    明日は天気になる。明日も天気になるわねぇ。
    彼らの生きたあの日々は過去であって今であって未来でもある。
    あの日、あの時、あの様にしたからこそ、、、
    そういう結果になったワケです。
    善因善果、悪因悪果。
    蒔いた通りに、花が咲く。
    時既に遅し、もう修正出来ない。
    面倒がらずにいるのであれば修正できる。
    せっかく生まれて今、生きているのだから。面倒がらずに居たい。
    未熟でも目的地まで遠くても、それでも僕は今生きているのだという生命の躍動を常に感じて居たいと思っている訳です。
    それを、唯一無二舞台上でのみ発現出来るのだから。
    自分の意志でもなく、誰に頼まれた訳でもなく僕の心臓は今日も鼓動し続けている。
    これはちょっと草花の生長と似ているのかもしれないニャア。
    なんだかアツいニャア。
    ありがとうございます。
    ヨコタシンゴ

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