ああ、部長!

    blog — yokotashingo @ 2013年1月21日-12:07 PM

    Les Misérablesの映画版を観た。映画版、舞台版というくくりにすると違うな。映画には舞台にある生の俳優の生命の躍動というかそういうのは無いし、舞台では見切れないであろう俳優の細やかな表情が映画にはある。もちろん両方にそのそれぞれもあるのだけれど、若干異種なるモノなんだな。

    あれは、ハッピーエンドだから心地よい終わり方だったなぁ。Les Misérables、日本語で言うと「あゝ無情」?だろうか。映画の感じだと「あゝ無常」でもいいな。

    うん。ミュージカル映画ではあるんだけれど。良かったな、当たり前か。レミゼなんだから。そもそもが素晴らしい内容なんだし。

    天下の大スターになんだけど。ジャヴェール歌もちっとがんばれよって思ったな。

    この時期に舞台や映画わんさかで見られないよ。なんでみんな同時にやるんだ。全く。

    仕方ないけど。

    急に話し変わる。

    以前に芝浜題材に芝居した時に、いくらショッキングでも「あんたそれ夢見てたのよ」っていわれただけで人が変わった様に酒をピタっとやめて、仕事急にバリバリしはじめる位人間が変われるかねと疑問に思った事がある。

    ミッキーカーチスさんだったかな、違うかもしれないけど。

    ある日、タイだかどっかでべろべろに酔って目覚めたら道路の真ん中に居たって話を聞いた様な、聞いていない様な。それから全く酒飲んでいないと。それほど衝撃だったんだという話し。

    酒飲んでやっちまった事は、数知れず。そんなんいちいち数えてられないワケで。まあ、今まで何杯のメシを食ったかいちいち数えてねーのと一緒だ。しかし、それを辞められる衝撃って何だろうかなぁ。そこまでの衝撃ねーなぁ。冬にほぼ裸で泥まみれで玄関に倒れていた事はあるが。先輩小突いて全く覚えてないとか。なぜそうなったのかは今となっては永久に謎のままなんだが。

    むしろその謎は解明されず、そのまま忘却の彼方へ行ってしまって欲しいくらいだ。

    衝撃か、、、そうなると俺は反省ねーなぁ。。

    いや、反省してるさ。

    最近は暴れる事もないけれど。熱くなっちゃう事はあるね。

    まあ、どうでもいいけど。立川談志師匠もそう言ってたな。

    ん?

    俺の師匠・・・

    じゃないよな。

    立川談志さん。立川談志氏。立川談志様。

    様って。

    おかしいだろ。。

    あゝ

    そうだ

    偶像的に「立川談志」でいいな。そうすれば呼び捨てじゃない。失礼じゃない。やっちまってない。

    とにかく立川談志も、そんな簡単に変われるもんかねぇと。

    でも、それが時代だともね。

    実のところ世界には善悪も死生も無く唯一無二の「その存在」しかないんだろう。それを神だとかなんだとか。量子力学とか物理の凄い人達、数学者もそんな「存在」を一所懸命追い続けているんだろうな。ワンネスっていう感じかな。

    で、落語も、演劇も、歌舞伎も大衆芸能であるんだけれど。たとえばその中の「負の肯定」に絶対的な真理を求めたりしてきたんじゃないかと思う。先人は何だかんだそんな事をしてきている。だから芸に神様が在るんだろうよ。

    ワンネスと言いつつも、人は常に変わり続ける。それは進化であり向上なわけで。だからきっかけが「その衝撃的な事実」で人が変わった様になる事は、あるんだろうな。

    立川談志が代表作芝浜を大して気に入ってない様な事を言っていたが、きっとその意図は芝浜に「人は不変ではなく日々死に近づいている」という事実を含むぞと大衆に示唆していたのかもしれない。

    わかるかなー

    わっかんねーだろうなぁ

    という感じかな。

    それこそ、つまり。

    ・・・・・・・・・・・

     

    あゝ

    無常

    あ、ぶちょっ!すみませ、いや、仕事してますよ。それより部長、、、昨日、、ちゃんと帰れました?(笑)

    感謝

    ヨコタシンゴ

     

     


    言ってみただけだし、知ってるしそんな事。

    blog — yokotashingo @ 2013年1月15日-4:21 PM

    前回の舞台で減量して9キロ痩せたけれど、御陰様で6キロ戻って来ておりさらにこの増え方はとどまる事のない様な気がしている。次は9キロ増やしてみるか。

    ただでさえチビなのに、デブがついたらただのチビデブだな。おいしいじゃないか。これで禿げたら尚更おいしいのに。役者としては、仕事増えるんじゃないか。そういう問題じゃねーか。腕の問題なんだから。

    相変わらず戯曲を読みふけっているけれど、到底及びつかない程の数出版されているのでまだまだ行き着かない。

    どこに。

    今納得する所へ、だ。

    それだけ存在する戯曲なのに、そこいらの本屋で戯曲が1万冊置いてあった試しがない。そんな本屋見た事がない。

    否、一度だけあるがそこはもう閉鎖されてしまった。そこの店主(敢えてこの呼び方をする)は演劇の啓蒙家であり、演劇への並々ならぬ知識と愛情を持った方だ。出来る事ならまたお会いしたいのだが。

    先般メールを送ったが、アドレスも閉鎖されているので届かなかった。この思いが伝わるのであればご連絡を頂きたい。しかし、その方との一度きりの出会いは僕に対し大きな推進力をもたらした。だから、またお会い出来る時まで自助努力の上に演劇をしていこうと思う。僕のしている事は、演劇や歴史や世界や宇宙や知らない誰かにとって些事、微力と呼ぶ事もおこがましい程の事ではあるけれど、僕にとってはまあ人生だから。

    昨日某大型書店で戯曲を探し求めていると、つかこうへいコーナーがあった。戯曲を取り扱う書店であれば当然置いてあるし、近所の図書館にだってコーナーがある。つかこうへいだから。

    つか先生には本当にお世話になった。先生から直接飛龍伝のお話を頂いた事は今でも忘れられない事だし。先生が亡くなる直前、新蒲田行進曲を上演する予定であったが、不幸にもそれは幻の舞台となった。本屋の書棚で「蒲田行進曲」を手にした。最後のページにその上演されなかったチラシが印刷されていた。

    知らなかった。

    カラテカの矢部太郎さんとのWキャストの予定だったんだな。チラシの裏のコピーに「はたして矢部太郎は、横田真吾(この時まだ漢字)は天才平田満を超えることができるのか?!激動の8月」と。

    荷が重い。勘弁してくださいよ。

    本の最後にあれを印刷し宣伝していてくれた真意は判らない。つか先生のお考えなのか劇団の皆様のお考えか、出版社の方なのか。そんな事はどうでも良い。

    たまたま懐かしく手に取った本にほんのり自分の名前が出ていた。この刹那の直感が大事なんだ。ありがたかった。それでどうという事ではないが、ただただありがたかった。

    ああ、そうか。

    色々繋がってきたぞ。

    近所の子供達が放課後に固まりかけた雪を惜しむ様に、雪遊びに熱中している声が聞こえる。最近学校では滑るから雪で遊ぶなと言うらしい。

    なんだそれ。

    そうやって子供の生命力をどんどん削って行くのだ。危険から遠ざけ自らの責任を回避する為だけの事。しかし素直に聞かず全力で遊ぶ子供がいるので安心。

    さて。おじさんも仲間にいれてもらおうかな。

    鉄は熱いうちに打、雪は溶ける前に遊べ。

    そして、これだと思ったときにやれ。

    ありがとうございます

    ヨコタシンゴ


    静かならぬ2013年の系譜。つまりうるせーって事。

    blog — yokotashingo @ 2013年1月12日-4:44 PM

    新年明けてから早2週間が過ぎようとしている。うん。もはや2カ月ぶりだから当然今年2013年初ブログとなるのであるが、殊更誰に向けるでもなく自分自身に言い聞かせるような、そんな感じでいこう。

    原点に立ち返り、完全に日記を記してみようと思う。そして日記なのだから、これも当たり前だが誰かに見られると恥ずかしい。。

    日記の大前提として、第三者に見られることのない安心感と、見られたら恥ずかしいというストレスが必要なんだ。だから小学生の時に女子が行っていた交換日記は、特定の人とのみの交換という事で成立する。ブログがネットで公開されているというここで果たしてどこまで「日記」が成立するか、そもそも矛盾の上にあるという事は理解しておこう。

    役者だから、誰にも見られないという設定でやって行こう。でも見られている事は知っているんだけど。当然。

    だからこれは舞台の上で「秘密裏にこっそり何かやる」という芝居するのと同じなんだけど。観客はそれを観ているんだから。

    全然秘密じゃないんだけど、秘密だ。役者にとっては秘密だ。

    だから舞台上と客席という繋がっている様で繋がっていなくて、同じ空間にいるのに居なくてというこれまた当たり前をこのブログでやってみる。

    また、役者は恥をかく職業だという事で、人様に見られたくない日記を晒すという事をしてみよう。

    ああ、考えただけで恥ずかしい。

    自分のMっぷりに突っ込みたい気分だ。

    ギターを片手に唄いながら歩く歌手を流し。

    台本を片手に恥をかきながら歩く役者を晒し。

    うまくない。。

    「人間にとって大切なのは、何を恥と思うか、それだと思う。」

    役者にとって大事なのはこれなんだ。恥を知る。

    まるで自分の言葉の様に書いたが、違う。

    つかこうへい先生の言葉だ。

    パクった。いや、ちゃんと書いてるんだからパクってはない。

    しかし、次回公演の本が中々決まらない。年末年始戯曲ばかりを読み漁った。大体は半分くらいで違うかなぁと次に行ってしまうのだけれども。

    いつもの「コレだっ!」という直感がまだ。人事を尽くして天命を待つって言うくらいにまでやればひらめきというか出会いは必ずある。いつもそうだらか今回もそうなんだ。だからあまり心配もしていないけれど。これは本来の他力本願だ。

    今回からは、相談したり議論したり出来る劇団員という仲間がいる。これは嬉しい。

    本心では、メンバーである宇田川さや香と野澤いっぺいに「とっととコレだって戯曲さがしてこいやぁ!」と思っている。

    これは、勘違いの他力本願だ。

    毎年「飛躍」という言葉を使わないようにしているが、今年は満を持して「飛躍」だ。飛躍する基礎固めをずっとしてきたつもりだ。これからもそうなんだけれど。

    劇団を会社にしてメンバーも増えてきて、演劇に取り組む。ああ、演劇家になりたい。もしくはパンダになってゴロゴロしててもキャーキャー言われたい。

    ああ、くだらない。

    むしろくだりたくない。

    のぼりたい。

    そういう事じゃねーか。

    それよりも、昨年12月に行った扇田昭彦氏の「日本現代演劇の軌跡」という講演の内容をまとめ様と思っていて一月半が経過した。そろそろ忘れちゃう。

    そうだ、そこで「現代の演劇界には純粋な演出家がいない」という言葉が耳に残っている。作演出というのが多いからか。大体どちらも本当に大変な作業なのに、その両方が「とても出来る」のは難しいんだ。

    劇作家と演出家とは別の仕事なのだから、混同すべきではない。うちの中井監督も常々そう言っている。解釈を造形化するのが演出という。

    ま、いっか。俺は役者だ。劇作家にも演出家にもならんし。

    上から言った。

    なれないし。。

    さて、今年もしっかりと楽しいだけの毎日を過ごして行こうと思う。

    今年も顔晴れよ。俺。

    ありがとうございます

    ヨコタシンゴ


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