体重計乗ったら感動する程驚いたので自分の身体を思いやりたい。

    blog — yokotashingo @ 2014年1月4日-12:22 AM

    謹んで新年のご祝詞を申し上げます

     

    さて、平成も26年、西暦に至っては2014年というそんな今年。

    毎年同じ事を申しておりますが、大晦日から元旦へかけて1日経つだけなの

    に、年が変わり昨日は旧年で元旦は新年となる。

    時の流れはいつもと変わらずなのに随分と特別な日になる訳です。

    年が明け、元旦になったから何か変わるのか。

    否、とかく変わる訳ではない。

    だからこそ自分自身で変えて行くのだろうと思っています。

     浅草寺 

    大晦日、自分に晦い(くらい)ことはなんだったのか、出来た事や出来なかっ

    た事を明確にし、明るくなって元旦を迎える。

     

    そのつもりなのですが、年頭から色々な事がひっきりなしに起こります。

     

    毎年今年のテーマを自分なりに言葉で表しています。

    「躍心」「中庸」「泰然自若」「勇往邁進」「至誠」・・・。

     

    それぞれに、それなりに思いを込めています。しかし、基本的には真摯に演劇

    に取り組んで少しでも人として立派になろうとする事であって、言葉は違えど

    その本質は自分にとって特に変わるものでもないのです。

     

    今年はもう少し具体的に「共生」を自身に掲げて行こうと思います。

     

    もちろん「個」は大切です、アイデンティティというのでしょうか。そもそも

    日本にはなかった概念ですが、日本語にすれば自己同一性。最終的には自分な

    のです、もちろん。最終的には、、。

     

    「人間にとって大事なのは、何を恥と思うか」

    昨年の一発目のブログに記した、つかこうへい先生の言葉です。

     

    公私という概念が、少しずつ崩れている昨今。公で私を露呈する事を恥とした

    日本の文化的思考は今や、「私は」「俺は」「僕は」こう思うのだ、それが

    主張であり権利であり自己同一性だと言わんばかりの「俺のスタイル」が跋扈

    している。

    「公衆の面前」での「恥」は自己中心的な判断に基づき構成される。かつての

    共通概念ではなくなってきたのでしょう。

     

    好きな異性のタイプは「自分を持っている人とか・・」

    なんだそりゃ。

    自分に対しての価値基準が既に曖昧すぎてわからん。格好良く見えるのでしょ

    う。主義主張をもって自信のある様が。

    訳すと。

    何となくカッコよく見える主義主張っぽい事を恥じらいなく堂々と言う人。

    しかしそれはもはや

    「俺ってこういう人だからぁ」

    「私ってこういう所あるからぁ」

    と自分で自分発表しなければ理解しても貰えない様な弱き自己中心主義の

    成れの果てだ。

    「俺、自分」の「私」が生かされている事への未体験がこの自己チューを

    生み出すのだ。

    たった今目の前の事象が自分にとってラクな事かラクではないのかとい

    う判断に基づき行動しようとする。だから、歪みが生じるのは当然だ。

     

    これには、想像力の欠如が大きく起因していると思っています。そして、

    想像力とは思いやりの事ではないでしょうか。相手が、どう思っているか、

    何が好きで何が嫌いでどういう思考をもっているのか。

    ピタリと当てる必要はなく、それを想像して行動のモチベーションにする事。

    それは一つの思いやりです。自分がしてあげたい事もしくは、自分がしたいと

    思っている事が優先すると、それはもはや自己中心判断ですので相手の反応や

    起こる事象が自分の期待と異なる場合に否応なしに違和感と不快感を覚えます。

     

    そうなると、全体を見てバランスを取ろうとする例えば上司との間に溝が生ま

    れます。当然。

    どんなに「俺のスタイル」を貫こうとしても、上手く行くはずがないでしょう。

    なぜなら我々は一人で生きていないので「俺のスタイル」を貫いて格好よく見

    える人というのはその「俺のスタイル」が皆に受容されて「我々のスタイル」

    になった時に初めて「すげーかっこいい」事になるのではないかと思う訳です。

    私利私欲を別の所に置き、公の為に尽くす事が出来る。これがチームや組織の

    基盤であり、又その上で信念という大義の上に私を主張する事が大事であると

    思っています。そしてその私は周りが真摯に受容する事が出来る。納得が生ま

    れる。皆の為に何かを行うということは最低限のコンプライアンスなのでしょう。

     

    人間性と社会性を合わせ持つこと。これが共生へ向けての重要な項目だと考

    えます。共生を育む事が出来なければ、そこには孤立しかありません。

     

    「恥」は共通概念でなければなりません。恥の価値基準が自己中心的である

    と、当然社会性がないので、まず大人として通用しません。

    さらに、我々表現者は共通概念である恥を知らなければ「恥ずかしい人」を

    演じる事が出来ません。

    皆が「それは見ているだけで恥ずかしい」という事を演じて初めて笑いや共感

    を得る事ができるので、キチンとして居なければならないという訳ではなく

    (もちろんしていたのが良いと僕は思うが)「キチンとしている事としていな

    い事の両方」を理解しておく必要があるのだと思っています。

    何をしたいのかワカラナイお芝居というのがありますが、それがいくら

    「お芸術」ですと言った所で、観ている側はきょとーんなのです。

     

    想像力の欠如は思いやりの欠如です。感動するとは驚きを持つ事。

    想像力も感動も、個人の一つの思考では生まれません。どちらが欠けても人

    は生きて行く事ができないというのは決して過言ではないと思っています。

     

    共通概念という基盤からその要諦を掘り出し、笑や感動につなげる演劇が担

    う役目は大きいのだと確信します。

    つまり演劇は、人間性と社会性の両方を兼ね備えていて、それを敢えて所々

    ぶっ壊す事によって受け手の感動と想像力を喚起するものの一つであるので

    しょう。

     演劇や創造はもちろん仕事ではありますが、文化的活動でもある訳で。

     かくして僕は、今日も自分で動かしているつもりが全くないのに、日々

    しっかりと鼓動してくれる心臓にこれはひょっとして、、、という想像

    を働かせながらその不思議な自身の生命活動に驚きを隠せない。

     

    そんな事を、浅草木馬亭でコントをしながら考えていたのです。

    これが丁度その時の表情なのです。

     

     

     

     

     

    皆様今年も宜しくお願い致します。

     

    感謝

    ヨコタシンゴ


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