劇団江戸間十畳「海と日傘」終演。連日満員というありがたい公演でお客様には本当に感謝。
さて、僕にとっての江戸間十畳物語は急展開をみせているようだが、その実それはずっと前から張られていた伏線に他ならない。
驚く程に僕の人としての心が音を立てて壊れていく。少しだけ残った正気という理性のなかに、あれやこれやを詰め込む。
詰め込むと言っても僕の心のコップは、今のこのサイズだ。
中身がいっぱいになれば溢れる。
もう一つの空のコップを用意して、自分のコップの中身を一旦移せば良かったのだがそれが出来ずに溢れた。そしてヒビがはいり、そこからも漏れた。
耳が拒否する程の聞きたくない厳しい言葉を聞き、心が思わず払いのける程の不幸に遭う事は、僅かに徳の理解が進み修行となって、自分を磨く砥石のようなものだ。
菜根譚
菜根譚のこの言葉を胸に日々を過ごしてきたが、その砥石に磨かれる前にどうやら少し、欠けた。
舞台俳優として、演劇に携わる人間としてきっと、客観視した自分と主観で見る自分との両方のバランスを保つ必要があったのだろう。
どちらかに偏る事は非常に危うくまた、脆い。
たがしかし、また「己を知る」事を何よりもないがしろには出来ないのだとも知った。一作品毎に限界をちょびっとずつ超えて行くのだが、そのラインは越える前に明確にしておかなければならない。
そして、時には勢いで突破する事もあるが、本当はそのラインに落ち着いて近づき、それなりにゆっくりと跨いで越えていく事が望ましいのだと思う。
もちろん、未熟な僕はそこに辿り着く事から既に時間をかける事になる。
役者として稽古場から舞台における己への向き合い方としては、しんどかったり苦しかったりした所でそれはそれで幸せと言って良い。
答えがないモノを探す作業。そこには客観性と主観性の狭間でもがき苦しむ俳優の姿があり、それが何かしらを生む事になるのだろう。逃げの様にも感じるが。
しかし我々は、もとい僕はそのようにして日々を過ごしている事になる。
己の生の実感を、つまり僕は生きているのだという躍動感を唯一と言って過言ではない程にあの物質的に小さな、且つ僕たちにとって広大な舞台上という世界において感じている事は確かな事。
壊れた心を修復する為にひとつひとつを改める作業が今の僕には必要な事で。
紙に印刷された戯曲は、字面はそのままであるけれども、時代と共にそして紐解く人の全てによって流動的である。
その解釈と表現は今日と明日では大きく異なる。
なぜならば、今日は今日の事が起きていて、明日はまた異なる明日の今日の事が起こるから。
まさしく我々日本人に根付く「無常」の精神性を持ってそこにたどり着く。
されど、その本質はいつの時代も変わる事はない「普遍」であるという事。
混乱は、僕の様な人間には必至だ。
そして劇団という、社会的に驚く程に認知されない団体を「会社」という社会的責任を背負って推進していこうとする僕たちに立ちはだかる壁は、大きい。
そこに必要な事は、我々のビジョンであり信頼関係であり、具体的な第一段階の到達点。
そしてなによりも、愛する事。
思いやりという名の元に、思いを隠す事は正しいときもあるが過ちである事もある。
すぐに答えや結果がついてくる事ではなく、僕の信ずる表現者としての到達点を。
夢に見つつ、本日も混乱の中に喜びを見いだしてまた明日という今日を迎えて行くのだろう。
ああ、僕の日常はこんなにも激しい。
なにはともあれ。
ありがとうございます
ヨコタシンゴ