つまりは当事者意識って事かもしんない。

    blog — yokotashingo @ 2011年9月28日-12:27 PM

    東日本大震災での被害として、日々行方不明者の数は減り死者の数は増えている。その数は日々の新聞に記載され、また姓名の判別がつけばそのお名前も記載されている。

    地震に津波に台風、原発事故に政治停滞、景気後退、ギリシャ問題、政治、経済、国、国民、俺。

    日本国民としての俺。

    国家とは地域の集まりで、地域とは家庭の集まりである。そのミニマムなコミュニティーである家庭は「個人」の集まりである。という話しを聞いた事がある。つまり国家を憂うのであれば、個人が「ちゃんと」しなさいという事。

    「ちゃんと」するというのは良い言葉だと思う。以前「ちゃんと」ってどういう事ですかと聞かれた事もあった。それが、今から記す「何だかんだ」なのかもしれない。

    「何だかんだ」って便利すぎやしないか。言葉が。

    もとい、少なくとも俺の32年の人生の中では、これほどに世界、日本に起きている問題において鬱屈したことはない。もちろん日々色々と起こっていた事は分かっているし、また歴史に刻まれる出来事が遠い遠い世界の事でなくなった年齢になったのだと言われれば、それはそれでその通り。

    またこの一カ月で、師匠のお父様が亡くなり、最愛の祖母が他界、そして先日はネパールの飛行機事故で共に勉強している同志を失った。志半ばでその生涯の幕を閉じた彼のご冥福を心から御祈りいたします。

    そして、もう一度自分が生きているという事を受けとめた。

    拙いながらも今が歴史の転換点である事を認識しています。特に最近、過去を振り返らずに前を向いて行こうという言葉をいくつか目にします。それはその通り。しかしまた、過去を遠くまで見渡すことが出来なければ遠い未来を見据える事もできないのではないか、なんて事も考えています。

    現代社会に生きる人間として、過去を学ぶ事は重要だと思っています。でも、それは近現代的過去ではなくてもう少し足を伸ばした過去でしょう。それは文化芸能に関してもきっとそう。ここ数十年は、現時点に抱える問題点と相違ないはずだから。だって、近、、現代だから。むしろ様々な問題で未だに解決されていない所か、さらに悪化している問題まであるでしょう。

    俺としてはちょっと遠い過去の江戸時代くらいまで遡ると、現代に通じた問題が見えてくると思っています。教育に関しても江戸教育に学ぶ所は多いはずです。

    100円ライターなんかも、昨日から規制で着火し辛い子供に安全なライターが生産されるという。昔は仏壇とかに大体マッチとかあって、火遊びしたらおねしょするとか、駄目だと言う事したらブッ飛ばされたりして危険との共存というか、けじめを教えられたんだけど。この「子供に安全ライター」に見る「子供を危険から遠ざける」という風潮は、まさしく現代教育の落とし穴の様な気がしてならない。

    子供が、危険を学ぶ機会が少なく育つわけだから生命力そのものが薄れるはず。主体が子供ではなく大人の都合なんでしょう。他力依存に他ならない。

    他力依存。日本演劇界の末端に、それも最北端に、言うなれば宗谷岬の海との境につま先立ちをしている様な、、、どうでも良いがつまり、その末端に身を置くものとして、演劇人の端くれとして、こういう風潮はこの世界にもあるんだな。捉え方はもちろん人それぞれではあるけれど。

    元来役者なんてのは、自己のメッセージを持つものではないワケで。いや、ヨコタシンゴ個人としての主義主張はありますよ。もとい自己のメッセージを発現したいのであれば、映画監督、演出家、作家にならなければいけない。役者は舞台上で芝居の一部然として存在する役目だと考えています。

    しかしながら、その為には役者というか演劇人としての作業は365日休むことがないはずなんです。ただでさえ、毎日世界では沢山の事が起きて、毎日異なる内容の新聞が来て、読めば読むほどに困難な戯曲は一生涯で到底紐解けない程に存在し、その隙間に泣いたり笑ったり叱られたり、酒飲んだり女の尻追いかけたりしなければならないワケで。

    役者ってのはやることが沢山あるんです。舞台に立っていなくても、撮影していなくても。

    にも関わらず、特に自分の近い所でいうと、小劇場役者という演劇愛好の青年たちは勉強しない。そんな役者は自称役者であってくそくらえだ。人に迷惑かけていないだろうと言われるかもしれないが、真摯に向き合わない役者が存在出来てしまっている芸能の世界に問題がある。そして、勉強不足の自称役者達の功罪は大きい。

    俺なんて、勉強してもしても全然おっつかないくらいな先輩やら師匠やらが周りにゴロゴロいていつも、そんなのも知らないのか!って叱られる。叱られたくないし、悔しいから兎にも角にも勉強する。戯曲を読み解くだけではなく、政治も経済も、社会のシステムも、思想、哲学、科学、論語を読んでみたりもする。俺の頭で出来るわけないだろうという量の取り組みをしてもまだ、いっぱしの役者にはなれないのだ。

    そんなことの繰り返しで、いつか大きな機会に恵まれた時、そこで俳優然として活きられる様日々努めるんじゃないか。

    新人だと12年間思っていたけど、気がついたら現場でも中堅な年齢にいる事に気がつく。師匠にも「いつまでも若いと思い過ぎだ」と言われる。

    やっていれば自然と芝居がわかって巧くなるなんて事はないはず。中には天才が存在するのも事実ではありますが、要は待っていてもチャンスはなく、人に押し上げて貰えば輝けるという世界ではないという事。他力依存せずに精進して行く事は不可欠であるという事。役者の作業というのは生きる作業なんだという事を最近少しずつではあるが、腑に落ち始めた。ような気がする。たぶん。きっと。

    役者をやっていると一度でも口にだしてしまった以上、「日本の演劇」に対して多からずとも責任が生じているのだ。

    なんて事を考えつつ、次の芝居の戯曲を読み、「ちゃんと」責任を持って何だかんだ準備を進めます。

    出会った多くの人へ感謝を。

    ありがとうございます

    ヨコタシンゴ


    WordPress-Basic 和の環2 All rights reserved. | 和の環2 Sitemap